仕事で忘れられないシーンがある。
今から十数年前、不動産に携わって間もないころの話だ。
物件案内でまだお住まい中のお宅を訪ねた。関係者の皆が顔を合わせて話し始めてすぐ、私は売主さんにストレートにこう尋ねた。

「今回お売りになる理由はどんなわけですか?」

それまで笑顔だった売主さんの顔がみるみるうちに曇り、口をわずかに開けたまま固まってしまった。
それもそのはず、このお宅は売主さんが金銭的な理由から手放さざるをえなかったからだ。
初対面の見学者さんを前にして、いきなり自身の口から内情を披露するのは、たいそう気が引けることだったに違いない。

宅地建物取引士の新人研修では、買主さんに開示すべき情報のイロハを教わる。
物件の諸元データはもちろんのこと、一般的なマイナスポイント、外部から見てわかりづらい工事や埋設物の履歴などがそれに当たり、売却理由もそのなかに含まれていた。

買う側にとって変なモノはつかまされたくないし、健全な取引かどうかは非常に気になるところだ。
対象物件が美しければ美しいほど「なぜ売るのだろう?」と疑心暗鬼になるのも事実。
不動産業者は売却理由を正確に把握し、買主さんに説明することで、安心に導かなくてはならない。
とはいえ、買主さんの面前で売主さんに直接告白してもらうのはまずかった。
買主さんに肩入れしすぎたばかりに、売主さんの尊厳を傷つけてしまったのだ。
何でもガラス張りで即開示がよいわけではないと知った貴重な経験だった。

不動産業者の役割のひとつが、売り買い両者の間に入って言いづらいことや聞きづらいことを情報整理し、しかるべきタイミングと方法で共有を図ることだ。
人によって情報の秘匿度は違うし、ピンポイントでどうしても言えない内容もある。
両者が直接やり取りすればケンカに発展しかねないパターンすらある。
しかし、不動産業者が個々の事情を見極めつつ歩み寄りの関係を探ることで、こうした危険を防ぐことができる。
では、売る側、買う側でどんな情報を準備しておけばいいのだろう。
それはまた別の機会でお話することにします。

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